松下研究室に進学を考えている方へ

  最近、Twitterなどで、なんでもかんでも「セクハラ」よばわりしたり、トランス女性の女性トイレの利用に慎重な発言をしただけで差別主義者と決めつけて糾弾するような風潮があります。そのような行いは社会を分断してしまうものであると私は危惧しています。

  そもそもセクハラの概念は、加害者の意図に関係なく被害者の受け止め方を肯定しようというのが出発点なので、意味は発信者ではなく受信者によって決められるというポストモダンな認識論が反映されています。それゆえ解釈抜きにして絶対的にセクハラなる行為やものは存在しません。そのようなものが存在すると考えるのは認識論ではなく存在論です。なので、たとえば宇崎ちゃんポスターがセクハラか否かと存在論的な議論することは、出発点(認識論)と着地点(存在論)がずれているため、堂々巡りにしかなりません。これに限らず、フェミニズムの論客は、その手の堂々巡りの議論を得意とし、理論の言葉で武装しながら論点を自分に都合よく巧妙にずらすので、反論が難しく、大抵の人は言いくるめられて、どこか釈然としない思いだけが残ります。セクハラが認識論であるなら加害者とされる人の言い分も十分に考慮されないといけませんが、実際にはそうなっていないことも問題です。宇崎ちゃんポスターへの批判が、バストのサイズが大きい女性の心を傷つけていることも看過すべきではありません。

  当研究室では、男性(あるいはマジョリティ)に対して女性(あるいはマイノリティ)はいつも被害者という二項対立的な固定化された枠組みで物事を考えるのではなく、権力は揺れ動くというフーコー的な視座に立ち、むしろ昨今の「被害者文化」ーーつまり「被害者」となることが人に利益と権力をもたらすために、「被害者」ポジションに自己を積極的に位置付けようとする人が少なからず存在するような社会環境ーーがどのような背景で成り立っていて、どのような問題を引き起こしているのかを考えるような学生を歓迎します。フェミニズム、ポリティカル・コレクトネス、文化相対主義、脱構築を盲信せずに、それらの問題点を、被害者ポジションにつくことなく客観的に批判できる人材を育成することが、当研究室の目指す方向です。
  トランスジェンダーの方のトイレ問題に関しても、脱構築フェミニストやクィア理論家の関心がトランス女性の女性というジェンダーアイデンティティを擁護することに偏っていて、トランス女性の要求を100%認めなければ差別主義者というレッテルを貼って攻撃したりすることは問題だと思います。当研究室では、たとえばトランス女性とトランス男性のトイレ問題における非対称性を考えたり、トイレ、温泉、更衣室、スポーツなどが男女に分けられてきた歴史と社会背景に目を向けたりするような学生、つまり、政治的な主張をするためや、偏った正義を振りかざすために研究するのではなく、一次資料やデータに基づいて客観的な研究ができる、良心のあるひとを歓迎します。ひとも文化も、身体や歴史の物質性抜きにして存在しえません。
  表現の自由の問題も然りです。しばしば広告やポスターが一部の人を不快にすると批判され、撤去されたり謝罪を要求されたりする一方で、芸術作品と名づけられれば多くの人を傷つけるようなものでも「表現の自由」となるのはなぜでしょうか。このようなダブルスタンダードに批判の目を向けて、そもそも誰がそれを芸術と呼んでいるのか、芸術と芸術でないものの先引きは、誰が、どのようにして行うのか(そしてそこに権力が介在してはいまいか)と問い、特権化された空間ーーあるいは利権が存在する世界ーーとして芸術という領域を見ることができるような視点を、当研究室では提供したいと思っています。
  令和元年、名古屋で大きな問題となったあいちトリエンナーレ「表現の不自由展」を巡っては、大学教員の有志があちこちで署名を集めて展覧会を擁護しました。彼らからすれば、展覧会にお金を出さないと決めた名古屋市長や文化庁という巨大な権力と闘っていたつもりだったでしょう。けれども、人を傷つけることもあるのが芸術だと主張し、傷ついたと騒ぐのは芸術を鑑賞する力が足りていないからだと言わんばかりに作品の正しい意味をレクチャーした専門家たちもまた、一般市民にとっては知を振りかざす権力者だったのではないでしょうか。彼らの行為は市民の傷口に塩を塗るものだったに違いありません。インターネットで知る限り、海外の外国人研究者からも多くの署名が集まったようですが、海外の研究者が作品の内容を詳しく知っていたとは思えず、知らないで署名したのだとしたら誠実さに欠けます。そもそも昭和天皇の御真影をバーナーで燃やして足で踏みつける映像や特攻隊の方々の死を嘲笑うかのような展示物はメディアによって隠蔽されました。そのせいで、本当の意味で「表現の自由」について考える機会は市民から奪われてしまいました。そしてメディアや知識人による「表現の自由」という中身のない空疎な言葉だけが残されました。この出来事は、私がフェミニズムやリベラル左派と決別する最後の、そして大きな一押しとなりました。
  最後に指導可能領域について触れておきます。私の元々の専門はアメリカ文学と文学理論で、ナラトロジー、クィア理論、ラカン派精神分析、脱構築などを用いて、文学テクストにおけるセクシュアリティに関する意味生成のプロセスを解明することを目標に研究を行っていました。拙著『クィア物語論』でその目標を達成し、出版後は現実の社会と向き合いたいという欲求が強くなりました。そこで2016年にセクシュアル・マイノリティのスポーツ参加に関する研究で科研費に採択されたのを機に、社会調査と統計分析の方法を一から学びました。その後、徐々に社会調査に基づく研究成果が出せるようになり、現在は社会調査に基づく研究指導をメインに行っています。そのため現在のゼミ生の多くはインタビュー調査、アンケート調査、統計分析の方法を学んでいます。もちろん、元の専門分野であるジェンダー・セクシュアリティに関する理論や、ラカン派の精神分析を援用した文化研究も指導可能ですが、その場合、理論に関する指導のみ行います。ラカンの精神分析は言うまでもなく、いわゆる「理論」は難解なので、理論を研究したい場合は、哲学や現代思想の知識、インプット、アウトプットのための高い言語能力、そして最も重要な資質として粘り強い忍耐力が必要です。サブカルチャー研究の指導はどのようなメソッドでも行いません。研究の対象フィールドは、日本と英語圏に限ります。